ネガティブだけど前向きに!!
一つ、ないものねだりはしない 二つ、ないなら作れ! 三つ、ポジティブポジティブ!

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逆境に負けるな!
by模擬国連早稲田研究会所属
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自分であることへの意識の持ち方に関する2、3の考察

 さて、2、3の考察シリーズです。

 サークルの1年生が読んでくれるようになったとしてもスタンスは変えません。俺の世界は俺が格好つけて終始です。

 んで、今回のお題。「自分であることへの意識の持ち方」などといっていますがどういうことか。ようは自分をどう思うかです。

 おっと、長くなると思うので、コメントバックは追記の方にあるという事をあらかじめお知らせしておきます。

 良く俺は「逆境ナイン」なんかの影響で、

「もっと自分に自身を持て!」とか、「出来るか出来ないじゃない!!」とか、「やればわかる!!やらない奴は一生出来ない!!」とか、「自分を信じないで結果が出せるのか!?」

 というような事を言いたがります。

 

 でもさ、「自分に自信を持つ」って何よ?それって良いことなの?と自分にネガティブな俺はふと思っちゃったわけよ。バイブルであるはずの逆境ナインに「異議あり!」って思っちゃったのか?


 まあ、それはともかく、自信を持つってどういうこと?
 自分を好きになるということ?それじゃあ、ただのナルちゃんだよ。オリバーちゃんだね。(オリバーという人の愛称ってナルになるそうなんです。)


自信とは!?

  自分で自分の能力や価値などを信じることや、自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないことをいう!!!」


 ふむ。自分の事を信じることだよね。読んで字のごとく。
 こうなると自分を好きって言うのとはやっぱり変わってくる。だって好きになるというのは自分の能力や価値、行動を信じるというよりは、全面的に認めるということだから。

 信じるに足る事実はそこにはいらない、ということだ。


 信じるということは、経験的にそれが間違わないと判断してるが故に、特に考察無しで受け入れるということだ。

 実情が伴わずに受け入れる「好き」とは違う。


 では、どうしたら自信=信じるができるのか。
 簡単だ。経験的に自分は失敗しないと知れば良い。
 でもそんなことは出来るのか?成功するという判断基準そのものが多くの場合自己の期待によるものであり、全ての事象が思うようにならない、つまり逆境にまみれている以上自分のすることが成功するという確信は得にくい。

 これなら上出来だ。という充実感を得ることは出来ても、その成果以上のものがこの世に間違えなく存在する以上それを成功として実感できないことが多いからである。
 自分にしては上出来だ。では、次も上出来が出来るか等分からないから。

 では、人間は一生自分に自信を持つことが出来ないのか?そして持てるならば、持つことは本当に意味があるのか?


 まず、自分に自信を持つことが出来るかどうかについて。
 ちょっと、信じるってどういうことなのか改めて考えてみる。

 例えば、俺は立ち上がることが出来る。歩いて目的地に行くことができる。落ちているものをかがんで拾い上げることが出来る。これは自分の行動の結果に対し、確信が持てるのでその行動の結果には(その行為の意義はともかく)信じて疑わない。

 これって自信を持っているってこと?

 だとしたら、これって今までも散々言ってきた自分が出来ることと、出来ないことを知り、できることの範囲内での最大限をするということにつなげられそうだね。

 つまり、自信を持つことそれ自体は難しいかもしれないが、自分のできることを知ることで行動の結果には疑いが介入する余地が減る。

 ということは、「自分に自信を持て」というのは自分の範囲を知れってこと?知った範囲内で行け!ってこと?

 徐々に頑張って望む結果が自分の範囲内にあれってこと?


 あ~~~~~~!わけ分からん!



 以上!!!!
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ま、真実はいつも一つとは限らねーよなあ。

 いい年した大学生が5人集まって映画を見に行きました。

 「コ」で始まって「ン」で終わる主人公が出るやつです。

 ジブリッぽい絵でのび太の声の人が主人公役やっているのじゃありません。それは未来少年だ。
 知らない?ジェネレーションギャップ・・・。

 あ~、「名探偵コナン~探偵たちの鎮魂歌」です。

 メンバーは模擬国連の人たち5人Rio、ともくん、だのん、akikaです。や~い。白日の下にさらしてやったぜ。

 ま、とにかく終わった後は、どっかの誰かが「だ○○って灰原に似てねえ?」とか言い出したり、「横浜だった~!」って騒いだり、「ファミリーマートがあからさまに協賛してた~!」とか、「え!?お前あの複線の意味分かってなかったの?」とかそれなりに騒いで楽しみました。

 推理小説は大きく二つに分けることが出来ると思う。

 不可能犯罪を大掛かりなトリックで作り上げるタイプ。最後に探偵が推理ショーをして、暴いていくやつです。コナンや金田一はそれ。あとは綾辻行人さんの「館」シリーズもそうですね。あとは小野不由美さんの「黒司の島」なんかもそうだ。

 僕はこれを「綾辻型」と呼びます。

 次に、犯罪も起こるしよく分からない状況なんだけど、トリックを暴くというより、徐々に調査で明らかになる人間関係や物語の展開そのもので楽しませるもの。赤川次郎さんや宮部みゆきさんなんかがその手のをよく書きます。

 こっちは、「宮部型」としますか。

 コナンは基本的に漫画では「綾辻型」の形を取っています。少年漫画として正しい選択なのでしょう。読者をアッと驚かせることが出来るし、なにより探偵の凄さが際立ちます。

 でも、映画だとコナンはいつも「宮部型」をとるんだよね。短い時間でコナンたちキャラクターの魅力そのものを描くにはトリックや証拠探しに登場人物を奔走させるより、事件の一連の流れそのもので楽しませようというのでしょう。

 う~ん。俺は昔から「綾辻型」の推理小説のほうが好きなんだよね。犯人やトリック当てが出来るし。途中で読むの止められるし。ほら、「宮部型」は流れがあるから最後まで一気に読みたいんだよ。

 ま、どっちが良いとは言わないけど。映画を見るたびにコナンに違和感を感じ、昔見た金田一のほうの映画には感じていなかったのが印象的でした。

 え?映画の感想?面白かったよ。10周年ってことでなんででてきたのか分からないキャラも多かったけど。


 ただ、オープニングの「小さくなっても頭脳は同じ。~略~真実はいつも一つ!!」と格好つけてポーズを取るコナンを見て失笑してしまった、つーか噴出してしまったのは内緒です。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画


だから君にできること

 何か前回ので、「やっぱり教授はネガティブだね」みたいなことを言われてしまった。つーか、俺は自分のことにネガティブなのであって、他人や物事に関しては結構ポジティブだと思うんだけどなあ。あ、自分に降りかかる物事にはネガティブよ。あしからず。 つーかあれのどこがネガティブなんだ!?

 自分の本質を述べただけなのに。何事にも無関心で流れに乗るだけという今時の若者っぽさを出しただけなのにぃぃ。

まあいいや。んで?なにを書くか。

 今日は珍しくマスコミについて。つっても俺はあまり新聞やニュースを見ないダメダメ君なので、時事についてではありませんのであしからず。

 最近「それはマスコミがやたら騒ぎ立てているから、あたかもそうであるかのように感じるけど、実際はどうなの?」みたいなことをよく耳にしません?いや、俺はするんだよ。

 ニートについての話をするときとかに耳にします。実際は以前とさほど変わらない、今までも存在していたものをマスコミが騒ぎ立て、新しい名前をつけているだけなんだ!みたいな主張をする人ってけっこういない?

 んで、こ


何と!ここで、本文が消えた!!

携帯でいじっていたら消えました。携帯からの編集はほどほどにした方がよさそうです。

修正するのも大変なのでここで終わりです。

 あ~、ようは人々に認識された時点でもうとやかく騒ごうとどうしようもないんだから、その有無でのたまわないで、その社会的事実に自分がどうしたいか考えろってこと。

 以上!!くすん。

そして僕に出来ること。

 僕は自分の環境を嘆いたりしない方だ。というかそうありたいと思っている。もし、嘆いていたらそれは本心ではありません。

 自分の状況を凄く恵まれた、非の付け所のないものだと思っている。(もちろん、つらいこと。嫌なこと。たくさんあるが、それをいちいち不幸と思っていたらやっていられない)
 人生の運の99%をこの状況に生まれるために使ってしまったのかもしれない。

 この地域、国も大好きだ。この国の制度や教育にだって何一つ不満はない。
 僕をここまで育ててくれたものに恩義こそ感じていても不平を言う理由など、どこにもない。
 そして、社会がどう今の日本に対して文句を言おうとも僕がもう通り過ぎたものには興味はないし、僕がこれから社会人として通るであろう制度に関してはなるようになってくれていい。

 僕が環境に無頓着なのをなぜといわれても、僕の周りにあるものだからだ、としか答えようがない。

 嫌ってもしょうがないというより、嫌う対象ではありえないのだ。僕が甘いものがすきなのと同じように自明であり、そこに疑いは介在し得ない。

 疑っていないし、もし疑ったとしても僕にはどうしようもないと知っている。そして、どうにかする気がないのも自覚している。


 貪欲ではない、と言われるかもしれない。
 停滞を望む逃げの姿勢だといわれるかもしれない。

 おととし、大学に入学した手の頃、モチベーションの高い連中を見て、一人焦り、どうにかして自分を変えなければと焦った時期もあった。

 だが、今はもうない。諦めたのだろうか?
 そうかもしれない。きっとそうなのだろう。

 一年自分と対話して、自分の視点は酷く狭く、短期的であることを知った。自分を高めることに微塵も興味を感じておらず、むしろ身の丈にあった現状維持に努めることの方が大事と考えているのを思い出した。

 もう変えられないところまで老いてしまったのかもしれない。

 なにより、変える気がないのだ。そしてそれを不幸とも思わなくなっている。


 僕は僕らしく、僕として僕の出来ることをしかできない。

 今与えられた環境の中。手元にある幸せを逃さずに生きたい。
 
 目の前の、手に届く範囲の人たちが幸せであることが望ましい。それ以上は神に願いこそすれ僕にはどうしようもないし、どうする気もない。それは僕の環境の外だからだ。


 狭く、汚く、不本意な世界なのかもしれない。だけど、僕はここを居心地がいいと感じている。


 人との出会いや経験で世界は変容していくだろう。だけど、僕はそれを受け止めるし、その中で生きていくことが僕が僕らしく生きるということなのだろう。


 僕は越境者にはなれない。今日はそんな話。

 だけど、長生きは出来る気がする。今日はそんな話。

開幕と終幕はいつも唐突に、さりげなく

 お久しぶりです。サークルの新歓にかまけていたら、何か更新する気力がなかったというか、更新したら絶対愚痴になりそうだったというか、ブログ書くぐらいなら漫画でも読んだ方が・・・あー、寝たほうが?いいと思ったり、思わなかったりでさ。

 ま、一段落ついたので久しぶりに長々と書こうかななどと思ったりしまして、書きます。

 つーか、今日から授業開始だよ。ありえん。眠すぎ。7時間睡眠したのに、1限の魔力に屈しました。

 どのみち遅かれ早かれ、こんな睡魔だけが広がって授業を押しつぶすのだ。ならば生徒は教師に対し、自分の手で勉強して教師に、大学に対して贖罪しなければならん。それを分かるんだよ模擬コッカー!

 はい。え?何を言ってるのかって?分からないなら、分からないままの君でいてくれ。

 あー、とにかくここ2、3日考えたことをつらつらと書くよ。長いかも知れないし、そうでもないかもしれない。そんなことは書き終わるまで分からん。いつも思うが、若造の浅慮と無知をひけらかしてどうしようというのかね?俺はさ。ま、いいか。

 サークルの新歓担当をやっていたわけだが、まあそれが何とか一段落つきそうだ。まだまだ仕事は残っているが、後は事務作業ばかり。どうにでもなる。
 それより、この仕事が終わりそうだということの方が僕にはショックだ。

 受験のときにしろ、今回の新歓にしろ、延々と準備をし、失敗しないように。緊張しないように。最善を尽くせるように。もし乞い願わくば成功しますように、と努力をしてきた。

 そういえば、高校生活や転校直前の準備やお別れの期間もそうだ。

 そして気づくと終わっている。そこには何の感慨もなく、新しい日常が始まる。その新しい日常と、僕の精神の大部分を占め、古い日常を攻め立てていたはずのそれは気づくと跡形もなく、僕に何の挨拶もなく消えてしまっているのだ。

 見えないつなぎ目を探そうにも、そんなものがあったのかさえも怪しくなる。「本当に自分はそれに没頭していたのか」、「本当にそれは自分の心を占領していたのか」、「僕にとってのそれは毎週水曜日にはマガジン、サンデーの順番で読む、という日常の習慣と何一つ変わらないものだったのではないか」そう思えてならない。

 思い返せば、始まりも思い返せない。

 いつの間にか、細々と仕事や受験勉強をはじめ、気づけば多忙になっていて、さらに気づいた頃には全て終わり、余韻に浸るまもなく日常の中でまたテストやらイベントやらで忙殺されていく。

 僕は物語の主人公なんかじゃないから、何か見せ場があり全力を尽くし、結果「僕の心に大きな何かを残し、僕はまた一つ成長したのであった。めでたし、めでたし」なんてことには絶対ならないことぐらい知っている。だから、別に終わりが唐突に来ることに不満があるわけではない。達成考えられるほどの成果を得られないことが嫌なわけではない。

 確信が欲しいのか?自分は確かに働いた。努力した、最善を尽くせたのだと。いや、違う・・・と思う。
 確かにそれはあるだろう。自分に自信を持てない僕だからこそ、確信を持てれば、自信に繋がると考えている節はある。


 ただ、そんなものが何になるのか。過去の僕はお調子者で愚か者だから、そんな確信を持ったら確実に過去の栄光に生きるようになりかねない。俺はそれをよしとしたくない。

 後悔にしろ、栄光にしろ自分を縛るものではなく、糧として次につなげなければならない代物だもん。(ま、口では同とでも言えるわな)


 とにかくだ。いつ始まったか分からない。いつ終わったのかも分からない。自分が頑張ったのかすら分からない。

 日常の中に非日常を入れてみたところでそれが日常に変わるのにはさほど時間は要らない。
 そして日常に新しい非日常が入り、一部の日常が抜け出したとしても何一つ自分にもたらすものはない。そういうことだ。

 経験そのものが無意味だとは言わない。


 だが、意味を求めることは無意味だ。というか出来ない。全て30年ぐらいたってから語るべき結果論なのだろう。


 ふむ。とりあえず、俺は次の日常に身を投じなければ、ってことかね。はい。よく分からなくなってきたところで終わり。

 おやすみ~

テーマ:日常 - ジャンル:心と身体




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