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島本和彦マンガはこう読め!

僕はオタクなわけで、何オタクと聞かれればマンガオタクなんだと思います。

中でも僕の敬愛する島本和彦さん(以下敬称略)のマンガに対するパッションが抑えきれなくなったので、僕の持つ島本和彦論、というか島本漫画のどこに惹かれているのかを書き綴ります。


島本和彦と言えば「炎の転校生」、「逆境ナイン」「吼えろペン」等の熱血漫画を数多く描いている熱血漫画家として知られています。
ギャグ漫画なんだけど、オチなのか教訓なのかよく分からない叫びが入る非常に前向きなマンガです。
しかし、島本漫画の本質は熱い叫びや教訓じみた名言ではないと僕は思っています。

それが証拠に今「ゲッサン」で連載中の『アオイホノオ』はちっとも叫ばないし、何一つ教訓はないけど、これ以上ないほど島本漫画です。(叫ばないのに島本漫画が成り立っていることに、podcastで島本さん自身驚いていました)


では何が島本漫画を島本漫画たらしめているのか。

僕は「登場人物の初志を貫徹しようとする姿勢」だと思っています。


島本漫画の登場人物には大抵目標があります。「逆境ナイン」の不屈闘志なら甲子園優勝。「吼えろペン」の炎尾燃なら漫画を描くこと。
過去やバックグランド抜きに、とにかく一つ目指すべきものがあるのです。その目標を選んだ理由や「なぜ」というみみっちいフレーズは不要です。なぜなら、彼らはそれを既に選び、決めているからです。


しかし、そんな主人公達には様々な逆境が降りかかります。
そして迷います。「もうやめようか」、「何のために俺は?」、「ここまでやる必要はあるのか?」「自分は間違っているのではないか?」


しかし、彼らは初志を貫きます。

「男の一枚レッドカード」でこんな趣旨のセリフがあります。


正しいのか、正しくないのか答えはいつまでたってもでてこない。だが、いつまでも『?』のままではいられない。
どこかで、決意し、踏み込まなくてはならない。
自分の行いが90正しいなら、自分を10削って100にする。

自分が40しか正しくなくても自腹をきって60の責任を負って100とする。

その決意の積み重ねこそ、男の塊なんだ!


と。


つまり、島本漫画が格好いいのは、セリフがカッコいいのではなく、自腹きってでもなお突き進もうとするその姿勢こそが格好いいのです!

熱く叫びながら。ハッタリ、詭弁と言われようと、裏切り者と言われようと、彼らは自分を奮い立たせるために叫び、自分が何をすべきか、再確認し、その思いを強くしていくのです。

だからバックグランドやトラウマなんてどうでもいい。ただ、最初に決めた、目指したものを挫けそうになっても、立ち上がる姿こそを見たいのだから。


以上が島本漫画全体に流れる熱さの源流だと僕は考えてます。


長くなってきたので、一度この辺でやめておきます。

以上!
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崖の上の人面金魚はオームはびこる地球の夢をみるか、その2

はい、ポニョ感想文その2

最初に作品の構成、位置付けについて書いたので、(大きな物語の消滅しか言ってないませんが)続いては内容に踏み込んだ感想をば。
東の議論から少し離れて、彼の言うところの近代的な視点「自然主義的読解」になってる気もしますが。

僕のポニョの内容に関する感想は「人間と環境の共存の失敗の物語」です。

ポニョとナウシカの共通のテーマは(それがメインテーマであるかはともかく)環境を壊す人間と環境側の代弁者たる生き物たちの共存だと僕は思いました。

ナウシカは(映画では)人間もオームも死なせない道を模索し、映画の終盤には人とオームに和解させ、世界の浄化の可能性まで見いだします。
環境破壊の進む時代背景を踏まえた上で、環境側への歩み寄りが世界を救う、と訴えているわけです。

ではポニョは?
汚された海を目の当たりにし、自分もビンに閉じ込められたり酷いめにあっているのにお構いなし。

世界を変える力を持ちながら、それを自分のためだけに使って、世界を破滅の一歩手前まで追いやりました。
そして、人を好きになった後も、人間と海のハーフという人と自然の共存の象徴的存在になる可能性を持ち合わせているのに、彼女はその可能性を放棄して人間になってしまいます。

自然と人間の共存を諦め、放棄し、自然は人の側まで堕ちなければ、共存が図れない。そんなエンディングです。

人と自然は共存できない。人は人と生きなければならない。自然の側への歩み寄りはできず、自然も人に歩み寄ろうとしても驚異にしかならない。それがナウシカからポニョへ移行する20年で世界の宮崎駿が出した結論のような気までしちゃいます。

人間の汚染された地球への懺悔はナウシカ時代は自然への歩み寄りと地道なリサイクルでした。しかしポニョ時代では意図しない突発的な奇跡によらなくてはならなくなったというのも最近の胡散臭いエコブームへの批判という気もします。ポニョ父のように当事者でない人間がいくら知恵を絞っても無駄。奇跡でも待てと。

もちろん僕の考え過ぎなのでしょうが。

最後にまとめると、ポニョが可愛いからまあいいや、ってとこですかね。
以上!!

崖の上の赤い人面金魚はオームはびこる地球の夢をみるか、その1

遅ればせながら、『崖の上のポニョ』見ました。

ちょうど、東浩紀の「動物化するポストモダン」シリーズ(講談社現代親書)を再読しているところなので、だいぶうがった感想が浮かんだので、書いちゃいます。

以下、ポニョに関する若干のネタバレと動物化するポストモダン中の言葉を多々引用することになるけど、気にすんな。

ポニョの感想を一言でいうなら、セカイ系。端から見たら無垢な子どもの恋心や欲求が「世界の敵」となる、というところでしょうか。

それはともかく、現代版人魚姫って感想は結構耳にしてたけど、むしろこれは「ポストモダン版ナウシカ」かなと。

どちらも環境を破壊する人間と環境の側の代弁者たる生き物たちの共存の道を模索したお話だと思いました。(宮崎駿の意思や他の人の感想はさておき)
ただ、この2作品には大きな隔たりがあります。
この隔たりを中心にポニョ感想文を展開します。

先に細かい点を挙げるなら、キャラクター設定を幼くすることで聖女みたいないい子より、感覚的に行動原理が理解しやすく、共感・感動へのショートカットが図られている点。
政治的、社会的事情をすっ飛ばして個人の個人的な意志が世界の危機に直結してる点、などが挙げられるかもしれませんが、ここらはセカイ系全編に見られる傾向なのでこの程度の言及にとどめます。

では、本筋に。
20年くらい前のナウシカには映画という背景の奥には文字通り大きな物語がありました(とりあえず、作品的な意味で)。

監督の宮崎駿が描く「風の谷のナウシカ」があって、映画はその一部を切り抜いた引用にすぎません。

それに対してポニョには大きな物語はありません。
映画で語られなかったこと(ポニョ父は海で何をしてたのか、何をもくろんでいたのか、なぜ人間をやめたのか等)は宙に放りっぱなしです。最近はそういうのも珍しくないし、そこにケチをつけるわけではないけど、ハウルや魔女宅と違って原作からして宮崎駿だから、彼が続編や設定の細かい補正を行わない限り、こうした設定はいかされることはないでしょう。また、見た人にはそれはいわゆる蛇足だと言われる可能性大です。それはポニョのメタ物語性を排除する行為だろうし、データベース的なポニョを良かったという動物化した視聴者には既に感動して満足した以上不要なものだからです。

結果としてポニョはデータベースの補充を行うだけ。そもそも、この映画だってデータベースを吸い上げて寄せ集めただけなのかもしれません。

何にせよ、シュミラークルの後の大きな物語を必要としないポストモダンに即した作品の位置付けと言えるのではないでしょうか。

これの意味するところは大きく、宮崎駿というカリスマ的ビッグネームを使ってももはや、シュミラークルから大きな物語への接続はできなくなっていることを指し示していると思います。

言い換えれば、作品の答え・作者の意図より、メタ物語性を備えたキャラの消費が優先されていると言えます。つまりポストモダンに移行したことで、メタ物語性を持つキャラそれ自体との戯れが優先されているため、さすがの宮崎作品もメッセージ性もポニョの歌の可愛らしさも同列に扱わざるをえず、結果キャラのメタ物語性が大きな物語を食ってしまったとは言えないでしょうか。
東の言葉でまとめるなら崖の上のポニョはポストモダン的手法で作られたデータベースによるシュミラークルでありながら、「ゲーム的リアリズム」を備えられていないと言えます。そのため、一見壮大でもなく、深くもない。けど見ていて気持ちがいい作品となっているのです。

そんな感じ。
長くなってきたのでつづく!

逆境?

犬に吠えられ、追いかけられた。

そんな月曜の朝。
絶望した!

大人の階段に関する2、3の考察

久しぶりに長くて恥ずかしい文章を書いて羞恥プレーに走ります。

自分、中二病っスから
中二病の詳しい内容については、(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85)を参照してくれ。


最近読んだ小説の中でこんな一節がありました。

「誰かがうまく大人になれないのは子供の時間に子供であることに失敗したからだ
成熟仕切れない自分への疑念がしこりのように残り続ける」



なるほど、一理あるなあ。自分にも当てはまる気がするし。と思ったので、徒然なるままに書いてみます。
「子どもであること」というのは、他人を顧みず自己中心的であることということにして話を進めます。(心理学の授業かなんかで自己中心性というのは子どもの特徴だって言ってた気がするし)


では「子どもであること」がなぜ「大人になること」に必要なのか。

まず、「子どもであること」に失敗するとはどういうことか。
言ってしまえば「いい子ちゃん」でいることでしょう。学校はサボらない。先生や親にしかられるようなことはしない。友人付き合いを学業に支障をきたさない程度にこなす。
ようは、自分の行動原理に他人を意識し反映させているということ。自己中心的でないことです。そのまんま。


人の時間というのは連続しているから振り返ってる時以外はその断絶した面を見ることができない。しかも過去というのは今に続く断続的な認識なわけだからこれまた意外と見るのが難しい。

つまり、振り返った時に分かりやすい断絶が今と過去にない限り、人は自分に関する過去からの変化を見出せないのではないでしょうか。

話を戻してみる。
「子どもであることを失敗した」というのは自己中心的でないということ。つまり、精神的に未成熟なのにも関わらず、大人から見れば「大人らしく」振舞えるということなのだ。
そしてたいていその本人もそれが「大人らしく」振舞えているということに自覚的だし、それが子ども時代は評価につながるので「子どもであること」を失敗し続けるのだ。
しかし、こういう奴に限って自分が未成熟であることにも自覚的だったりするのだ。周囲の目を気にしながら行動している分大人というものがどういう風に行動しているのかを観察し続けなくちゃいけないし、だからこそ大人の庇護の下での「大人らしさ」と言うことが意識されてしまう。

だから、こういう輩は周りよりは大人らしいけど、全く大人には敵わないという自覚をもってしまう。

こういう賢しいガキにはまず劇的な変化は起きない。冒険もしないし、失敗らしい失敗もしない。知恵ばかり付くけど子ども時代からそうしているのだからそれは成長ではなく、学習でしかないと認識する。
そして思春期を過ぎた頃になると周囲の子どもが「子どもの時間」を終えてくる。(中には終えないのもいるけど)そうなると大変だ。十数年のキャリアがあるから大人らしく振舞うことをしくじることはないだろう。だけど、周囲からの評価を行動原理にしてきたぶん、「子どもの時間」を終えた周りの連中との差異化ができなくなってしまうからだ。これまで「大人らしく」振舞えればよかったのに、もう「大人」にならなくてはならない。

けど、これまで断続的に「大人らしく」いたんだからいまさらホントの大人になれといわれてもねえ。だから、自分は大人になれないという強迫観念のようなものに覆われてしまう。「子どもの時間」何の成長(変化)もしていないという自覚だけが残ってしまう。

そこで「自分はこんなものじゃない、まだ成長の余地が残っている」と思うもよし、「自分は大人になれないまま大人モドキとして生きていかなくてはならない」と卑下してあきらめるもよし。


なんにせよ、過去の自分から刷新された新しい自分と言うのがないから、自分を疑い続けないとならない。


僕はこれから社会人になるわけだけど、こういう疑いと一生付き合っていかなければならないと思うとちょっとうんざりするね。でも、もう代えられない。今からできる劇的な変化って、「大人の時間」なのに「子どもであろうとする」ことだから、それこそアホだし
ま、思い出さないように忘れながらいかないとね。


そんな感じ?
以上!



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